2006年5月8日(月)

「Dr.S.・・・」
 早過ぎた人なのか、機を見るに敏なのか、1958年「FIFA=国際サッカー連盟」の理事にアジア枠で日本人として
最初に就任されていた人でした。その後の同じ立場には川渕三郎チェアマン(キャプテン)ですら望んだものの、選挙で必要な支持を得られてません。それにJリーグ(プロの国内サッカーリーグ)の創設を最初に活字で訴えたのもこの人だったとか。この分野でも抜群の先見の明をお持ちだった人でした。
 本業を、若くして人に譲り、枯れる前の人生の最盛期を趣味の領域の「切手」「サッカー」に打ち込めた幸せな人だったのでしょう。この人のヒトトナリは、気鋭のライターが「全日本郵趣」で別の視点で最近光を当ててます。他人に論評される、それ以前にご本人が「竜」「桜」「青一」「墨六」、勿論、数え切れない論文で思う存分語ってます。心残りは「小判」が未完に終わった事ぐらい、研究家としても満ち足りた郵趣人生だったでしょう。ご自分で思いついたアイデアを自己表現ができ、それが世間にも受け入れられた稀な程の満ち足りた仕事をされたと言えるのでは。
 私は全くお付き合いが無かったのです。年代的にも、微妙なすれ違いですし、国内でも海外でも直接の会話を交わしたり手紙を書いた事も皆無です。丁度私がスイス・ドイツ・オランダ・北欧などで「JAPAN]に特化したビッドを積極的に始めた頃、Dr.はオークションでの活動は少し控えめになっていて、その後病を得て、T病院に伏せられたのです。もうほんの数年、早いか遅いかしていたら、私が出歩けるようになって、デン・ハーグの駅のフロアで「20銭縞」が旧韓国の李花・鷹と一緒のリーフに貼っていたアジアのロットを見つけて、お互いが相手を知ってか知らずかでギリギリの駆け引きをするスリルもかなりの確率で有ったのに、夢のままで終わってしまいました。この方が出されたカバーは数多く戻って来てますし、グルックナー宛の交換の申し入れの内容など、流石と思わせるものでした。気が合ったかも知れないのに悔やみます。
 少なくとも20数年、たぶん25年前と言って良いでしょう。その経緯は「西岡辰二の郵趣昭和史」の行間にさりげなく書かれてます。わかる人はわかるし、洒落てコナレタ2人の大人の約束とでも言って置きましょう。毎月発行される手書きのオークション誌のAの部に200ロットが全く同じスタイルで出品されるようになったのです。何時頃から始まったかは記憶に有りません。
 でも、暫くすれば気づきます。それに自然に裏の話も聞こえてくるのです。お爺さんとのちょっとした世間話は楽しいひと時でしたから。竜48文1版未使用がA-1・・・組合カタログ順に並んで、締めが旧韓国、すべてが玉ではないけれど、最低値でない、カタログ値(消印などはそれも無し)だけの自由入札なので、このオークションの唯一絶対の目玉でした。このパターンは長期間続いたし、入院されてからもすぐには途切れなかったので、余程大量なパターン化されたストックを黒のマウントを貼り付けたアプ帳として事前に準備されていたのでしょう。問わず語りで聞いた話では、Dr.と翁はどちらかが朽ちるまでは永久に続けようと約定を結び、まさにそのままに実践されていたのです。その発端が何なのかは、今となっては闇の中、詮索は野暮でしょう。
 今のオークションは随分システム化されてます。メールセール(やメールビッド)では、2番札の一刻み上で1番札の人が買えるのが基本のルールです。昔ながらの視野狭窄の勘違いで、一番高い人にその値段で売るというやり方を続けている場合は、オークションの定義では括れずに即売のバリィエーションになるのです。ここは、少し違ってました(今は別のシステムになってます)。
 何も書かなければ、全てその値段で買う意思表示、人の少し上まで引き下げて欲しければ、然るべき符牒を付けなさい。最も簡略なそれは、ビッドの数字の末尾に「まで」と書けば良い。1万円と書けば、2番値が1000円でも、1万円、1万円までと書けば1100円に機械的にしてくれます。最初は殆ど知られずに、結構長く続いていたルールだったのです。基本的に出品者の記事をそのまま書いているので、下見すれば有利だし、「まで」ルールを使うか否かで更なる大きいハンデを得られます。掃き溜めに鶴なのか、鳥居ぬ里の蝙蝠かは別にして、Dr.の異様なハイグレードのAの部は、この情報を得ている人の格好の狩場と化してました。
 私がそれと気づいた時期には数人が踵を接して同じように参入して来ました。京都のお鬚とか、連れの歯医者とか、三重でも豊中でも梅田には飛んで来れるくんとか。三都を巡りて故郷に帰って教師になった人がゴミ漁りの道に踏み込んだのもここが発端・・・。
でも、そのタイミングは私も含めて遅すぎたのです。我々が見落としたはずは有りません。ネタが割れておれば、ヤフーのアラートと同じで洩らしたり、見落としたりはない無いのです。出ていることを知らなかったか、それが出た時には、このオークションに参加してなかったのでしょう。
 Dr.も手彫以外の消印や目打は無関心、買値も無競争の仕入れだし原価などは意識せずとも良いのです。それに、オークションなのでソコソコの結果にはなりますから。もっとも旧小判12銭の済を最低値無しなので1000円で上から下まで入れてる人もいましたが。
 爺さんの冷たい扱いを見ていると面白い話が聞けました。でも、我々の目には触れないタイミングでそれが出ていたのです。
 又聞きで推測でしか有りません。でも、恐らくは当たっている。「朝鮮字8銭・15銭の未使用」がある時にこのオークションのAの部に出て、フレッシュなNGで測った目打は12・5。若きゼネラルコレクターが幾らで入れたかは聞いてません。「まで」と書いたかも分からない。でも、値段の情報の無い時代、12とさして違いは無いでしょう。結果が出るまでのドキドキ感は有ったでしょうが。それに同じ時に1銭・20銭・1円のNGが出ていたか否かも最早探るべき術はないのです。「立太子礼記念皇室贈呈用沿革志」がもう1冊有って、かつて、海外で剥がされた残骸が流れて流通したのでしょうか。有り得ない話では有りません。運の良い、彼の名は2種の12・5を持っている人として菊のコレクターの口の端にはよく登りますが私はフルネームも知りません。
 皆が「消えた」と言っていても、ひょんなきっかけで現れるかも。そのドラマの片隅にでも参加できれば嬉しいのですが。今はその端緒すら得てません。どのオークションにも掘り出しは有るのです。そしてそれは勿論罪ではなく、また運の良さだけでなく、努力をした人が得られる果実です。
 Aの部の200ロットが消え、私も時間が無くなってオークション誌を見る機会も減りました。それは1991年の新春のフロアセールでした、写真で見て、気になるものが有ったので下見に行きました。目打を確認して、紙を見てビックリ、ルーペで調べて慎重に確認、フロアの当日までの時間が如何に長かったか未だに覚えてます。楽しいネタですし、何時か何処かで真面目に検証せねばなりません。「Dr.S・・・」がご健在だったなら、とっくにそれなりの結果を得ていたはずのものなのです。幾つかクリアをせねばならない条件が有るのですが、今なら、私が指名する相方は一人だけ、今年もJ・・・X 実行委員長の大役を担う、ナイトウ先生です。成るか成らぬか乗って見ますか?